地域の歴史を長年にわたり調査して、 1993年に市の予算で「岡田町史」を制作しました。
戦前に町史の作成を始めたが、戦争の影響などで途絶えたがその資料が残っていた。
多くの先輩諸氏から、岡田の成り立ちを多面的に聞き取ることが出来ました。
大正10年ころより、当時としては大規模土地造成工事が始まり、農業生産地から繊維産業集積地へと大転換を図った時に、
実際にトロッコで作業をした明治生まれの方々から多くの知識を得ることが出来ました。
岡田小学校の6年生教材として制作しました、明治生まれの方々が話をします4分、ご覧ください。
戦後の復興がいち早く進んだ経過は、
1950年朝鮮動乱で繊維産業が特需で「ガチャマン」と言われる好景気で発展を遂げたことは、私も子供ながら記憶にあります。
また、1700年初めに江戸幕府が開墾を奨励しており、竹ノ内家が入植して木綿の問屋を開業しました。
その後に江戸十組み問屋の一員となり大成功を収めして岡田が発展しました。
1945年、敗戦で農地解放が行われ、竹ノ内家も大きな痛手受けて番頭さんを解雇することとなりました。
岡田町はガチャマンで潤い、番頭さんを助役として受け入れました。
1954年(昭和29年)竹田町長の子息に町の土地を無償贈与したことが、60年が経過し今に悪影響を与える結果となりました。
1955年には岡田・八幡・旭の3町が合併「知多町」が誕生しました。
面積は一番小さい岡田が織布産業の絶頂期で大きな影響を持っていました。
その後間もなく臨海工業地の埋め立てが始まり、重工長大産業が進出し、
更に内陸部は名古屋のベットタウンとして急発展して1970年には知多市となりました。
3年生の教材です、江戸時代、関ヶ原の戦いから100年後に岡田村が生まれた経過、映像6分。
岡田地区は織布産業の衰退で農業がリーダーと成りました。
岡田地区は中心部を大型トラックが大量に通過する主要県道西尾知多線があり、交通安全対策が求められていました。
昭和49年愛知県が交通安全対策として、歩道の設置と水路の直進化で水害対策も合わせて整備する事となりました。
県の用地買収に伴い、地主への買収対策として県が購入した水路兼歩道用地の北側1メートルを登記をしないで買収することとなりました。
登記をしない市の買収には、当時の市議員から異論があったと当事者から聞いています。
1987年に市会議員に当選して、複数の先輩議員から登記をしない買収には多くの問題が詰まっており、議員として注意深く見守るよう指導を受けました。
1995年4月に妻を亡くして、直後行われた選挙への立候補を中止しました。
6月まで任期があり、歩道脇1メートル用地に関する資料を取り寄せて確認しました。
1970年 昭和45年 市制施行「未来をひらく知多市」20分。
20年程が経過した2017年頃より、
ドラッグストアゲンキ建設に向けて整備が進みはじめました。